
ここでは教室長の学びに関する経歴を書きます。
幼稚園年長 ひらがなを幼稚園で習う。
小学校3年 まだ九九が全部言えない。
漢字テストはいつも20問中12問前後の正解
秋から公文式で算数を習い始める。
(1桁の足し算引き算から)
小学校4年 公文式では2桁の足し算引き算ができず、何度も同じところを繰り返す。
小学校5年 公文式で該当学年に追いつく
中学1年 初めての英語に戸惑う。
(語順の違い、日本語のような助詞がないことでなじめない)
夏から、友人のお父さんがしている補習塾に入塾。
英語の仕組みを理解して、苦手意識がなくなる。
進研ゼミをしていたが、一度も課題を提出することなく半年で退会
中学3年 受験勉強はほとんどしないで過ごした。
秋からは進研ゼミを再開したが、やはり課題は一度も出すことなく、受験終了。
高校は、私立は洛南高校を滑り止めで受験、合格。
受験理由は、毎日五重塔が見られるから。
公立普通科受験の前に、府立高専(現大阪公立大付属工業高等専門学校)受験。合格したが入学辞退。
公立普通科は府立枚方高校を受験、合格し入学。
中学3年間は週2回の補習塾以外では、テスト2日前からテスト勉強をする以外はあまり何もしなかったが、毎日寐る前に布団の中でその日に学校でやったことを思い出すようにしていました。
時間的には20分くらいでしょうか、結果的にはそれが日々の学習の代わりになっていたようです。
高校一年 進研ゼミを入学より受講するが、続かず一学期で退会。
夏休み前に高校の近くの補習塾に入会する。
まだ、勉強に対する認識が甘く、自発的に深く考えて問題に取り組むことができなかった。
春休みに、他の塾生を傷つけるような発言をして、退塾処分を受ける。
高校2年 一学期は心を入れ替えて、自力で予習復習をする。
すると、成績が飛躍的にアップ。
しかし、クラブが忙しくなると、勉強をサボりだし、成績は元に戻る・・・
11月、大学受験を意識し始めて、新たに塾に入る。
3月中頃より、本格的に受験勉強を始める。
目標は国公立大学農学部
毎朝5時から始まる「旺文社ラジオ講座」を聞くようになる。
この時から、受験終了まで毎朝5時に起きて、1時間ラジオ講座を聴き、7時までの一時間を日本史、世界史の勉強をすることを続けた。
高校3年 4月より、高校のクラブの先輩が通っていた大学受験専門塾に入会。
そこでは、駿台予備校で指導する講師に英語、数学を教わり、納得のいく英語と数学の勉強の仕方を知った。
その結果、英語と数学については、ある程度の自信を持てるようになった。(志望校には全然届かなかったが・・・)
夏休みは、受講科目の関係で塾は休会し、自宅で毎日14時間の勉強。
充実した毎日だったが、我流から抜け出せて無く、学力はほとんど伸びなかった。
特に数学の論理的に積み上げていく記述の力がほとんど付いていなかった。
他に、現代文の読み方や記述問題の解答の作り方の練習がほとんどできなかった。
英語は、5文型を基本とした構文解析が自分には馴染んで飛躍的に向上した。
10月、興味の対象が変わり、志望変更。英米語学科を目指す。
12月、関西外国語大学英米語学科に公募制推薦合格、その後入学。
大学1年 第2外国語にフランス語を履修
翻訳をしたいと思い、翻訳家養成で定評のあったバベル外国語学院の通信講座を受講。これは一度も遅れることなくすべての課題を提出できた。
大学2年 英語以外の外国語にも興味がわく。
スペイン翻訳民話研究会に入会し、スペイン語を学ぶ。
他にNHKのテレビ講座を毎日6時から7時まで視聴し始める。
講座はフランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、中国語、ハングル
一年続けてそれぞれの言葉の雰囲気は掴めたが実用的には身に付かず・・・
大学の講座でも、デンマーク語を履修。
大学3年 外国語熱はさらに加熱。
大学の講座で、デンマーク語、アラビア語、フィンランド語、ハンガリー語、スウェーデン語、ポルトガル語を履修。
他に、個人的にエスペラント語も学習。
相変わらずどれも身に付かないどころか、英語の学習にも支障が出て、二兎を追う者は一兎をも得ずを地でやっていた。
大学の交換留学の選抜試験も何の準備もなく受けたが、リスニング力が壊滅的にひどく落選。(他の領域は合格者平均を上回っていた)
大学4年 図書館でのアルバイトがきっかけで、大学に就職しないかという話が浮上。
ただし、図書館司書資格を年度末までに取得することが条件と言うことで、英語や他の外国語の学習を控えて、近畿大学の図書館司書課程を履修し、図書館司書の仕事について学ぶ。
23歳 仏教大学通信課程英文学科に入学するが1年で挫折。
ここからしばらくは新しいことは学んでいない・・・
38歳 学習塾の仕事の合間に整体師をすることを志し、京都の整体の師匠に整体の技術と理論を学び始める。(半年後に開業)
47歳 将来的に放課後等デイで働くことを視野に保育士の資格の取得を目指し学習を始める。
7ヶ月後9科目一発合格!
49歳 リラクゼーションセラピストとしてのもみほぐしの技術習得
55歳 英語を学び直したいと思い、近くの英語サークルに参加。
現在、こつこつ英語、特に話すことや聞くことを練習中
その人を知るにはどんな仕事をしてきたのかも参考になるかと思います。
大学1年 奨学金を得るために、朝日新聞の奨学会を利用。
朝夕の新聞配達をして大学生活をしようと思ったが、3週間で挫折(先輩たちを見ていると、勉強する時間がとれない!)
高校時代にお世話になった学習塾で講師としてアルバイト(3年まで)
夏期のアルバイトでプールの監視員
春休みには交通整理のアルバイト
大学2年 友人の紹介で家庭教師(大学卒業まで)
大学3年 友人の紹介家庭教師(1年間)
中学の担任の先生から、生徒の家庭教師の依頼(3ヶ月)
大学4年 大学の図書館のアルバイト
22歳 関西外国語大学に就職、図書館で司書として勤務
23歳 関西外国語大学を一年で退職
第一ゼミナールの幼児教育部門に就職
知能育成と小学校受験指導に3年間従事
26歳 明光義塾のFC部門に就職。
4年半、フランチャイズ教室の経営と運営の指導をする
31歳 脱サラ、個別指導まなびの森を開校する。
38歳 塾をしながら、整体院を開業
48歳 派遣社員として保育園で1歳児クラスを担当(4ヶ月)
49歳 「りらくる」でもみほぐしセラピストとして働く(週2回で2年間)
51歳 家庭教師のトライの行政事業で公立小学校での学習支援の指導員を始める(現在継続中 週一回)
丸亀製麺で飲食業に従事(1年間、週に2~3回 3時間程度)
枚方市立高陵幼稚園で保育指導員として午前の時間外保育をはじめる
令和6年現在
高陵幼稚園での保育指導員(毎朝7時~10時)
もみほぐしセラピスト(平日日中、土日の都合の合う時)
個別指導まなびの森(平日夕方)
で働いています。
私が生まれてからの出来事について簡単に、、、
大阪府枚方市で生まれました。(現枚方病院にて)
枚方市渚元町の借家で育ちました。
両親ともに中学卒業の学のない家庭でした。
父は日雇いの土木作業員で日本拳法という格闘技をこよなく愛する人でした。
母は私が幼稚園に通うようになってからは、午前中近くのクリニックで看護助手をしていました。
学のない家庭と言いましたが、勉強になる本についてはいくらでも惜しみなく買い与えてくれました。
おかげで家には図鑑と学習漫画が山ほどありました。
三歳頃の記憶があります。
毎日家の前で同じ長屋の友達と遊んでいました。
何故か、ある日のお昼に母と塩鮭でお茶漬けを食べていることをはっきり覚えています。
4歳頃 樟葉のローズ幼稚園に入園。
入園の前に、「春から幼稚園に通うから、お母さんと一緒にいれなくなるよ」と言われてショックを受けたのを覚えています。
幼稚園の入園前に、園長先生との面接があって、「朝起きたらご両親になんと言いますか?」と聞かれて「おはようございます」と答えたシーンも鮮明に覚えています。
幼稚園生活は、スクールバス通園でしたが、週に何度か不安のためにパニックになってスクールバスに乗ることを拒んでいました。
幼稚園では、先生が何を話しているのかが理解できないため、その時々にする指示が分からず、いつもぶらぶらしていました。
そして、周囲のお友達がしていることを観察して、その真似をしてごまかしていました。
そのために、母の日の母の似顔絵を書くときに、当時ショートカットの母を三つ編みに書いて絵を渡して苦笑いされました。
おそらく、この頃の私は発達障害の特性全開だったのかもしれません。
けんかもしょっちゅうしていました。
偏食もあり、給食のサンドウィッチが食べられず、そのときは毎回残して帰っていました。
集団行動がとれず、一人外れていることが多く、担任の先生に時々、教室から追い出されて一人園内をさまよっていました。
さまよっている時に出会った、友達は小学校中学校の友人となりました。
他にもいろいろと普通の子ができることができないことに肩身の狭い思いをしていました。
また、時々パニックを起こしていたようで、急に周囲の雑音のボリュームが大きく聞こえるようになって、人の会話が聞き取りにくくなり、大きな不安に襲われることがたびたびありました。
この頃のことを思い出すと、金魚鉢を頭からかぶり、外の世界を眺めているような感覚でいたように思います。
とても、外の世界が怖いと思っていたのでしょう。
対人関係に難があった私に、父は私が年長クラスに入ってから日本拳法を習わせました。
けんかはいつもしていましたが、基本的には好戦的ではなかった私は、人と戦うことを学ぶことが好きではありませんでした。
でも、格闘技を通して、礼儀作法を学び、人と向き合う姿勢を訓練できたように思います。
今思うとこれは療育の一つでした。
日本拳法については、スポーツの一つとして受け止められるようになると、楽しみともなり、30歳頃まで続けることになりました。
低学年
小学校入学式の次の日にクラスメイトと早速けんかをしました。
それ以降、けんかは毎日のようにしていました。(2年生まで)
学校が何をするところかをよく分からないまま入学したので、授業をまともに聞くことができませんでした。
そんな状態だったことと、発達障害の特性のためか、声の大きさのコントロールができず、いつも担任の先生にはうるさいと注意を受けていました。
また、思ったことをそのまま口に出してしまうので、それも授業の邪魔になっていたのではないかと思います。
給食では、家庭の味以外に抵抗があったため、いくつかのメニューがどうしても口にすることができませんでした。
そのために、週に2回は居残りをさせられていました。(今なら虐待です)
小学校2年の時に、電車に石を投げて止めてしまったことがあります。
後先を考えずに、おもしろいと思ったことはしてしまうところがあったので、夢中になって動いている電車を的に石を投げていました。
数時間後、枚方警察にパトカーで連れて行かれ、署長さんに厳重注意をされ、さらに翌日には校長室に呼び出され、同様に注意をされました。
この頃に野球に興味を持ち、打率、勝率などの割合の考え方を理解するようになりました。
また、防御率から単位辺りの大きさの概念にも触れました。
発達障害の特性のためか、数字に異常に関心を持ち、毎日新聞に掲載される打者の打撃成績を毎日眺め、その数字を覚えてから学校に行くようになりました。
また、軍艦や戦闘機にかっこよさを感じて、戦争に興味を持つようになりました。
その結果、軍艦や兵器のスペックを片っ端から覚えたり、太平洋戦争の流れを調べたりして、戦争に関係する形で歴史にも関心を持つようになりました。
おかげで中学では社会は得意科目でした。
中学年
何となく、この頃から自分は勉強というものがあまり好きでないと思うようになりました。
ただ、好奇心は旺盛で、いつも新しい知識を本を読んで学んでいました。
ある日、授業中が騒がしくなり、自分としてはおとなしくしていたつもりなのに、先生に目を付けられて、2日間教室に入れてもらえなかったことがあります。
自分では身に覚えがなかったので、自分からは謝ることなく学校内をさまよっていました。
相変わらず授業を受ける意味も内容も分からず、毎日授業中妄想に耽っていたように思います。
ただ、先生が自作した分数のプリントを楽しんでやっていたことを覚えています。
そのおかげで分数には苦手意識を持ったことは一度もありません。
当時、圧倒的にけんかの強い同学年の子がいて、その子と関わってから、けんかをする前に自分の行動を自制するようになりました。
そこからは、どちらかと言うと、おとなしい児童になっていきました。
また、この頃に、「人は笑うから幸せを感じるんだ」と言うことを、学校の帰り道にふと思い、それから意識して笑顔でいるようになりました。
そして、笑顔でいられるように、穏やかに、争いを避けて生きるようになったように思います。
それは今でも変わりません。
高学年
行動が落ち着き始めたようで、学校の授業の内容が頭に残るようになってきました。
偏食は相変わらず、週に1,2回は下校時間まで居残りをしていました。
勉強は公文式のおかげで該当学年に追いつき、カナヅチだったのもスイミングスクールに通って、普通よりもかなり早く泳げるようになった。
苦手なことが克服できたことで自己評価がかなり上がった時期です。
(ただ、発達障害の特性で、根拠もなく自分は特別という意識は昔からあった)
これも発達障害の特性の一つで、忘れ物は毎日あって、当時の担任の作ったルールで忘れ物の数だけ毎日ビンタをされていました。
色へのこだわりがあったようで、身につけるものに赤のものをとても好んでいました。(それは今も同じ)
この頃、バルサ材で作る飛行機を飛ばすことに夢中になり、様々な飛行機を自分で考えて作ったりしました。
空を飛ぶことへのあこがれと、自分で作った飛行機を飛ばすことが夢になりました。
また、毎日朝夕に父が般若心経を唱え、お寺への月参りに連れて行かれた影響で仏教にも関心を持つようになり、角川文庫の般若心経入門と言う本を読んだりもしました。(内容は当時の私には難解でチンプンカンプンでしたが、その端々に何かを感じていました)
また、母が教育熱心だったのでしょうか。
青少年科学センターや博物館などに毎年連れて行ってくれました。(私の希望でもありました)
他に、戦争オタクだったことに不安を覚えたのか、戦争展と言う催しが当時夏になるとあったのですが、毎年連れて行かれました。
そこで、戦争はかっこいい兵器があるだけでなく、それを使うことでどんなことが起こるのかを学ばせてもらいました。
おかげで今も兵器を見るのは好きですが、戦争については反対の気持ちが強いです。
学に入学した頃は、不良が全盛時代で学校内に変形学生服を着て、やんちゃなことをしている子たちがあふれていました。
私はあまり気が強い方ではなかったので、そう言う人たちとはあまり関わりを持たないようにしていました。
しかし、クラブは柔道部に所属し、そこそこ強かったこともあり、不良たちの間では無視できない存在だったようで、彼らの方から話しかけてくることが少なからずありました。
おそらく、私の行動が発達障害の特性もあって、目立つものだったことも原因しているでしょう。
中学2年までの交友関係はあまり多くはなく、小学校の時からの友人が数名と、毎年クラス替えのあるクラス内で一人か二人のクラスメートと仲良くするくらいでした。
ほとんどが学校内だけのつきあいで、校外で遊ぶことはあまりなかったです。
校外では、小学校からの友達一人と遊ぶのがほとんどでした。
この頃の趣味は戦争好きが高じて、ウォーゲームと呼ばれるシミュレーションゲーム(当時はコンピューターゲームではなく、ボードゲーム)を集め、研究をしたり、小学校からの友達と週末にプレイすることでした。
ウォーゲームは大抵10ページ以上のルールブックがあり、それを熟読して覚える必要があります。
そして、相手となるプレーヤーと理解のすりあわせをして、初めてプレーができるものです。
そのため、相当な文章の読解力と記憶力が必要であり、そこに戦略を考える思考力、見通しを立てる力、相手が何を考えているのかを読む洞察力など、高度な知性を要求するものでした。
そして、題材となる背景についての理解のために歴史についても関心が深まり、世界のことや平和のことについても周囲の人たちよりも深く考え、同好の人たちを語り合っていました。
題材こそ戦争ですが、決して現実の戦争を望んでいるのではありません。
多くのウォーゲーマーは盤上で繰り広げられる惨状をありありと想像して、反戦的な考えを持つようになると思います。
(現在のコンピューターで行うウォーゲームではそう言うことは無いように思いますが・・・)
中学生の時は、平日は柔道、日曜の朝には日本拳法と言う格闘技、昼からは友人とウォーゲームと言うのがルーチンになっていたと思います。
ただ、ほとんど平穏な日々であったと自分では思っていますが、記憶の限り、二度、いわゆるハブられそうになった経験があります。
一度は中学二年の時に、あるときから急にいつも一緒にいる数人のグループの中で、不快なあだ名を付けられて冷やかされ始めたのです。
私の中では何がきっかけだったのかは分かりませんでした。
今でも分かりませんが、その時にこのままではいけないと思って、中心になってからかってくるクラスメートの胸ぐらを掴んで、何が気に入らないのかを問い詰めました。
それで不快なあだ名で呼ばれることもからかわれることもなくなりました。
もう一度は、私が周囲の気持ちを省みない振る舞いによるものでした。
中学3年の時に、居候をしていた文化系のクラブに同学年の比較的仲の良い友人が数名いました。
私がそのグループ内でおとなしくしていれば、何も起こらなかったのでしょうが、私はそのグループとは違う人と仲良くし始めたところ、それを快く思わなかった彼らによって、やはり不快な言葉を投げかけられて、からかわれるようになったのです。
そのうち止むだろうと思っていたのですが、それは2,3週間続いて、このままではいけないと思って、やはり中心格の子を捕まえて、何故そのようなことを言うのかと問い、数時間話をして、どうなれば今まで通りの関係性でいられるのかを話し合いました。
結果的には、からかいは止みましたが、一度崩れた関係性は完全に元に戻ることはなく、卒業までぎくしゃくしたかんじでした。
でも、この二つともに思ったのは、いじめなどはできるだけ早期に対処をすることで、根が深いものにならずに済むのではないかと言うことです。
中学3年生の時は、人間関係が何故か変わりました。
おそらく、クラスで仲良くなったクラスメートが社交的でグループを大きく広げていったからでしょう。
それに巻き込まれるように私も多くのクラスメートと交流を持つようになりました。
その時のグループは定期テストの平均点が20点もない子もいましたが、逆に90点を超えるような子もいます。
でも、いつも成績のことなど気にすることもなく、分け隔て無く楽しく過ごしていました。
クラブを引退した二学期以降は勉強会と称して、5,6人で誰かの家に集まっては遊んでいました。
私自身、大学に進学するというイメージが具体的になかったので、本当に高校については何でも良かったのです。
と言うか、当時の私は学校への反発でしょうか?学校の勉強と考えるとまったくやる気が起こらなかったのです。
(でも、知的好奇心は強かったので、結局は勉強の内容は覚えてしまうのですが・・・)
高校に入学すると、まずは交友関係の構築です。
最初に中学からの知り合いとの関係を堅いものにしましたが、後から考えると、それほど仲良くなる要素もなくただ、高校生活を孤立せずに過ごすための方策だったと思います。
クラスの中では、声が大きく、突飛な発言やリアクションで知らず知らずのうちに注目をされていたようです。
そして、二学期くらいからは私の方が気にしていなかったクラスメートから声をかけられて仲良くするようになり、今でも交流のなる友人となりました。
クラブは水泳部に入りました。
耳に持病があり、週に二日だけプールに入りました。
元々水泳が好きだったので、あきらめることができなかったのです。
プールには入れない日は陸上でのトレーニングをしていました。
中学の時からやりたかったクラブに入り、高校での生活の中心はクラブ活動になりました。
月~土曜日まで、放課後はすべて水泳のために過ごしました。
そして、日曜日の午前は日本拳法。
おかげで勉強は全然でした。
また、水泳部は部員同士の仲が良く、頻繁に校外で一緒に遊んだりもしていました。
秋の運動会では応援団をしました。
人の応援をするのが好きなこと、大きな声を遠慮無く出せることができるのが嬉しいことが、大きな理由でしたが、実は女の子との出会いがあることも密かな理由の一つでした。
私は、中学では硬派で通していましたが、やはり年相応の男の子で、やはり異性との交流にも憧れがありました。
もしかすると、他の男子よりも関心があったのかもしれません。
期待通り?三週間ほどの応援団の活動を通して、女の子との出会いはありました。
この時は、片思いに終わりましたが、素敵な女の子とパートナーを組み、淡い思い出を作ることができました。
この時の女の子のことはそれから一年間、ずっと心の中にあり、悶々とした気持ちで過ごすことになりました。
そして、二年の夏に思い切って暑中見舞いを出したら返事が来たことに驚喜したことを覚えています。
一年の秋くらいから、新しく親しい友人との交流が始まり、中学の時の知り合いの友人との心の距離が広がっていくのを感じていました。
そして、最終的にはお互いに無視し合うくらいにぎくしゃくした関係となってしまいました。
楽しい思い出が多いような気がしますが、ところどころで片思いや友達との関係悪化など、もやもやしていることも多かったように思います。
二年生になるとクラス替えがありました。
そこでは一年生の時に同じクラスでそこそこ話をしていた友人といつも一緒にいるようになりました。
彼とは互いの結婚式に招き合うような関係となりましたが、今では年賀状だけの関係です。
この友人とはいろいろと話が合い、実現はしませんでしたが、一緒に軽音楽バンドを組もうかという話も出たりしました。
(私は楽器はできないのですが。。。)
クラブにもいっそう力が入り、夏までは体力のぎりぎりまで泳いだり走ったりしていました。
この頃には上級生がいなかったので、練習メニューを自分で決めたりして、充実したクラブ生活でした。
クラスでも球技大会でソフトボールで優勝したチームのピッチャーを務め、何故かクラスの中での好感度が上がりました。
これをきっかけに、クラスの女子とも話す機会が増えたように思います。
やはり、運動ができるというのはメリットのようです。
夏休みはクラブ三昧で、合宿は自分たちで企画したり、毎日がきらきらしていました。
ただ泳ぐだけでなく、部員たちと遊ぶことも精一杯で、勉強はほとんどしていなかったです。
楽しいクラブでしたが、私は他の同級生よりも少し早く、八月いっぱいで引退しました。
それは、二学期には運動会があり、そこには応援団があったからです。
この年も応援団に参加して、精一杯大きな声で応援をしました。
そして、この年も気になる女の子との出会いがありました。
そして、その女の子とはその後の文化祭でも縁があり、つきあうことになりました。
憧れの彼女ゲットでした!
いろいろありながら、この彼女とは5年半交際することになりました。
また、2年の二学期には、一年生の時の親友との交流も深まり、彼の入っている文化系クラブに居候するようになり、交友範囲は広がりました。
そのクラブにいた女子の後輩たちにも慕われて、それまであった女性に対する苦手意識も改善されていきました。
高校生活の中で一番華やかなイメージの時期でした。
11月が近づくと、大学受験を意識するようになり、塾に通い始めました。
塾へは高校の帰りに直接行くので、下校時間まで学校で彼女と過ごすのが日課になりました。
他の友人も交えて話をしたりしていましたが、多くはは一緒に勉強をしていたように思います。
ちなみに彼女との初めてのデートは近くの関西外大の学園祭でした。
結果的には私はこの大学に進学するので、ある意味オープンキャンパスにいっていたようなものだったのでしょうか。
2月になると、他の友人よりも一足先に受験の準備を始めていました。
私の高校はみんなのんびりしていたので、一浪と「ひとなみ」と言うようなところでした。
私が早めに受験準備に取りかかったのは、彼女がいたからです。
浪人をしてしまったら、一年間彼女と大手を振ってつきあうことができなくなる。
それが嫌で、本気でがんばろうと思ったのでした。
そして、三月からは旺文社のラジオ講座を聴く毎日が始まりました。
これは朝の5時から30分の講座が2つあるのですが、国公立志望の私はすべての講座を聴いて一日を始めるようになりました。
ここから受験終了まで八ヶ月、朝五時に起きて勉強をすると言う生活です。
それまで勉強らしい勉強を自発的にしていなかった私にはそれはそれで新鮮な毎日でした。
三年生になって、勉強三昧の毎日が始まりました。
でも、彼女との時間だけは意地でも確保する毎日。
他の友人とのことはほったらかしにして、彼女と勉強だけで毎日を過ごしていたという感じです。
四月からは塾を変え、より内容の濃い受験勉強を目指しました。
自転車通学を電車通学に変え、駅での待ち時間、電車に乗っている時間を英語の長文を読む時間にしたり授業の間の10分の休み時間には数学の問題を繰り返し解くようにしたりして、少しでも勉強の時間をとるようにしました。
そうやってぼんやり過ごす時間を無くし、交際していた彼女との時間もしっかりとれるようにしました。
朝は駅で待ち合わせして学校までの15分間を話しながら歩き、昼休みはさっさと弁当を食べると、残りの25分くらいを校舎の片隅で二人で過ごしていました。
月~金の放課後は、塾に行くまでの時間、約1時間半を、彼女と勉強をしながら過ごしていました。
土曜の昼から、日曜日は基本的には私は勉強をしていたので、デートにたまに出かけるとき以外は、それぞれに過ごしていました。
平日で平均して6時間の受験勉強をして、現役での国公立大合格を目指しての極端な生活をしていましたが、よく彼女が付き合ってくれていたなと思います。
夏休み前に、運動会の応援団の結成がされるのですが、その時には同じ応援団好きの同級生から一緒にしようと説得もされましたが、頭を下げて辞退しました。
確かに、応援団に参加すれば、高校生活の思い出としてはすばらしい経験ができたと思います。
でも、それは現役での国公立大学合格をあきらめることを意味していました。
この頃、いくら勉強しても目標に追いついていかないことに焦りを感じていたのでした。
人生で初めて、まともに勉強をすると言う経験で、すべてが手探りの中、かなり無駄なこともしていたと今となっては思います。
夏休みは、ほとんど家にこもり、一日平均で14時間以上の学習時間をとりました。
ここで、一気に目標に近づくのだという意気込みでわくわくしていたのを覚えています。
彼女とのデートで二日と夏期講習と模擬テストで一週間ほど家の外に出た以外は、ずっと朝から寐るまで机の前に張り付いているような生活でした。
正直言って効率の悪い勉強をしていたと思いますが、そこまでできた事については、今でも本気になったときにはとことん集中して打ち込めるのだと言う自信になりました。
しかし、現実には意気込みは空回りして、思ったようには学力は向上せず、夏休みの終わりには、現役での合格にこだわるなら志望校変更、または浪人をするかの選択をするかで悩み始めます。
そんな過酷とも言える夏休みの癒やしは、やはり彼女の存在でした。
デートには海と夏祭りに出かけられたことは、張り詰めて疲れ切った心の安らぎであり、支えになりました。
そして、週に3,4枚届く彼女からの葉書。
現代では考えられないことでしょうけど、気軽にメールをするような手段がなかった40年前に、彼女なりに考えた応援の方法だったのだと思います。
一枚一枚、日々のことや思っていることが綴られ、それを読むことで、もう一踏ん張りしようと思えるのでした。
二学期に入って、志望校変更を決定することがありました。
それまで国公立理系を目指していたのですが、外国語学部を受けようと言うことになりました。
それは、ある日の新聞の記事で外国との摩擦のこと見て、それぞれの国の代表の間に立つ翻訳者や通訳者の働き次第によって国際的な摩擦が軽減されるようなことがあるのではないかと、無知な私は思ったのです。
そして、日本人の外国に対する偏見や無知、同様に外国からの日本に対する偏見や無知をなくすことで世界はもっと暮らしやすくなるのだろうと思いました。
そのために、翻訳家になって、外国のことをもっと日本人に紹介をするような仕事がしたいと思ったのです。
何となく漠然と理系の勉強をして研究職にでも就ければ良いなと思っていた最初の志望動機とは違い、具体的な職業でどんなことをしたいのかと言うことがはっきりしたことで、志望変更をすることには何の迷いもありませんでした。
そして、私は英語の専門学校に進学したいと父に話しました。
父は私がどれだけ勉強していたのかを知っていたので、もしそれで行ける大学があるならば、大学に行ってほしいと答えました。
私としては、どこに行ってもすることは一緒だと思っていたので、どこでも良かったのですが、お金を出してくれる親の希望を尊重して、外国語学部のある大学を受験することにしました。
しかし、国公立大学では受験科目に無理があるので断念し、私立の関西外国語大学を受験することになりました。
目指すは12月の公募制推薦。
しかも受験科目は英語のみ。
それまで、センター試験での5教科8科目の勉強が一気に楽になったのを覚えています。
それでも、英語の勉強を中心にシフトしながらも、数学と国語の勉強は続けました。
そこからは、彼女と過ごす時間にも罪悪感は減り、ゆとりを感じて楽しく過ごせていたと思います。
週末にあったりすることも増えました。
そして、開放感から少し調子に乗ったこともしていました。
自分の学校の文化祭を抜け出して、友人の高校の文化祭に彼女と一緒に出かけたりもしました。
しかし、それは学校から抜け出すところを先生に見られていて、学校に戻ってからこっぴどく説教を受けました。
12月の始めに、大学受験が終わりました。
実質的な高校生活は後1ヶ月という感じでした。
彼女との時間以外は、ほぼ灰色の日々でしたので、取り立てて何か思い出を作りたいという気持ちもなく、ただただ、気の合う数人の友人たちとおとなしく過ごしていたように思います。
3学期に入ると、一週間で卒業テストです。
そして、その後は大学受験の一般入試が本番なので、卒業式まで長い休みになりました。
私は学費を稼ぐために朝日新聞の新聞奨学生に申し込み採用されました。
新聞奨学生として働き出すのは3月に入ってからでした。
そして、それまでに運転免許を取得しておきたいと思って、自動車学校を探しましたが、2ヶ月で免許が取れそうなところなど、その時期にあるわけもありません。
かろうじて見つけたのが和歌山県の自動車学校でした。
私はそこに、毎朝始発の電車に乗って通うことになりました。
毎日3時間かけて自動車学校に通うというのは、今思うと馬鹿なことをしていたなと思います。
結局、新聞配達の仕事の開始までに免許を取ることはかなわず、すべては無駄に終わってしまいました。
お金も、彼女と楽しく過ごせたかもしれない時間も失われてしまいました。。。
こういう博打的で浅はかなことを私は人生の中で度々してしまいます。
そして、大抵は失敗をしてしまうのでした。。。
卒業式も終わって、3月からは新聞配達の仕事が始まりました。
本当は販売店の近くに部屋を用意されて住み込みで働くのですが、私は職場から近いことと、退職予定の人が3月末まで残っているので、部屋に入るのはそれ以降となりました。
生活は新聞配達の仕事が中心となり、朝は4時前に起きて4時半頃に新聞店に入り7時まで配達をします。
そして、夕刊を3時半に入店して配達して、翌日のチラシの準備をするのですが、これが9時くらいまでかかることがしばしばあったのです。
そのために帰ったらご飯を食べたら寐るだけの生活。
大学に行く時間はありますが、これでは翻訳家になるための勉強をする時間は取れません。
当然ですが、彼女と過ごす時間も日曜日しかないでしょう。
これでは何のために大学に行くのか分からない!
そう感じた私は、親に相談して新聞奨学生を続けることを断念しました。
こうして、私の高校生活は終わりました。
入学が決まったときに予定していた新聞奨学生は、入学前に辞めて自分の目標に向かってしっかり勉強をしようと、わくわくしながら入学した大学でしたが、実際に入学してみると思っていたような訳にはいかず、自分の意志の弱さに怠惰な生活を送るようになっていました。
一年生
いろいろなことに興味を持つ性格で、大学の授業は取れる単位上限いっぱいまでとっていました。
その結果としては英語の力を付けることが二の次になってしまいました。
また、周囲の大学生の雰囲気に流され、自由に楽しみを求めて勉強以外のことにも多くの時間を割くようになりました。
これはもしかすると、高校三年生の時の禁欲的な生活の反動だったのかもしれません。
アルバイトは高校1年の時に通っていた塾で週1日教えさせていただき、それ以外の日は地元の中学時代の友人と夜遅くまで遊んでいたり、週末には彼女と過ごしていたりでした。
翻訳家になるための勉強は一日1~2時間くらいだったでしょうか。
大学の授業の予習復習、宿題にかける時間は1時間あるかないかぐらいでした。
正直言って、遊びほうけていたような記憶しかありません。
夏期休暇や春期休暇は短期のアルバイトに精を出していました。
夏休みはプールの監視員をしていました。
この仕事は2時間外で監視をすると、二時間室内で待機をする感じで、待機中は事故でも無い限り何をしていても良かったので、半分くらいは英語の本を読んで過ごしていました。
残りの半分は、同僚との談笑やゲームをしていました。
ただ、先輩後輩の関係が厳しかったので、少し息苦しかったです。
春休みには、工事現場のガードマンをしていました。
私が入る現場は一人ではいる現場がほとんどで、暇が多く、寒さが残る中、立ちっぱなしの仕事が身に堪えました。
しかし、それらで稼いだお金は一部は翻訳家養成の通信講座に使ったり、親に渡して学費の一部に当ててもらいました。
2年生
二年生になると、何気なく過ごす怠惰な大学生活に変化を求めるようになりました。
そこで興味を引いたのが、様々な言語について学ぶことでした。
専攻で将来それで飯を食べていこうと思っていた英語の学習についてはきちんと向き合おうとはしていませんでした。
おそらく自分の英語力が仕事に使えるほどは高くなく、そして、語学のセンスもそれほど高くないことに気づいていたからでしょう。
その結果、他の言語を学ぶことで自分の気持ちをごまかしていたのだと思います。
毎朝6時に起きてNHKの語学講座を一週間、テキストをそろえて毎日見ていました。
フランス語、スペイン語、ドイツ語、ロシア語、中国語、ハングルです。
そして、大学の授業でもデンマーク語とフランス語を英語以外で学んでいました。
大学生らしくいろいろな人との交流も図ろうと、サークルにも参加しました。
スペイン民話翻訳研究会です。
スペイン語について学び、年に一度スペイン語の民話の翻訳をして、冊子にして国立国会図書館に寄贈するということを主な活動にするサークルでした。
そこのメンバーとはあまり気が合う同級生はいなかったのですが、それでもサークル活動の一環で、合宿という名の観光旅行に行ったり、学園祭に模擬店を出したりして、大学生らしい生活を送った一年でした。
大学の授業はこの年も取得できる上限まで履修登録をして、さらに教職課程も履修しました。
毎日、一時間目から5時間目まで、結構ぎっちりと詰まっている時間割で、予習復習の時間をとることも難しくなりました。
しかし、同じ授業料を払っているなら、たくさん授業をとらないと損だと思って、興味のあるものはすべてとっていました。
結果的には、一つ一つを余裕を持って学べなかったために深く理解することができなかったのではないかと反省しています。
アルバイトは友人の紹介で週2日の家庭教師もするようになり、収入が増えて、本の購入費が月に1万円を超えるようになりました。
とにかく、語学に関する知識に飢えていました。
また、図書館にも毎日入り浸るようになり、大学にある語学の入門書を読みあさったり、コピー機の前に居座り何冊もコピーをとっていたりして、図書館の職員に顔を覚えられるほどでした。
勉強については、翻訳については1,2時間は相変わらず確保していましたが、学校の英語の勉強はかなりおろそかになっていました。
英語力としては、周りの人たちが伸びていく中、停滞しているのを感じて焦っていました。
でも、その英語としっかりと向き合う勇気が無かったのです。
学校外では、相変わらず地元の友人と夕方のあいている時を見つけて、行きつけの喫茶店で談笑をする日々でした。
なんだか、そのような怠惰な時間が大学生らしいのだと思い込んでいたのかもしれません。
付き合っていた彼女は、芸術系の短大に入学して、平日は忙しくしていたので、週末には京都の町をデートするのがおきまりでした。
そして、彼女の勉強や課題のために美術館や博物館を巡り、本屋で美術の専門書を一緒に漁っていたりもしました。
あまり、服などのお洒落に関するお店に入ることはありませんでしたので、少しずれたカップルだったかもしれません...
3年生
大学の3年生は一番大学生生活が充実する時期です。
勉強はゼミがあり、専門性の高いことを学びます。
私は第一志望、第二志望のゼミに入れず、まったく想定していなかったゼミに入りました。
そこでは英語の歴史のようなものを学んだのですが、あまり深い内容まで学ぶことができず不完全燃焼でした。
また、周囲には交換留学を目指す友人もいて、学問的な英語よりも使える英語のトレーニングに力を入れる友人が多かったのが、私には違和感がありました。
元々は翻訳家を目指して、使える英語を身につけたかったのですが。やはり大学と言うものは専門学校でない以上学問として外国語と向き合いたい気持ちが強くなりました。
また、英語以外の言語への関心もさらに増し、スウェーデン語、アラビア語、ハンガリー語、フィンランド語なども大学で履修するようになり、他に独学でエスペラント語も学ぶようになりました。
とにかく興味がどんどん広がっていき、世界が広がっていくような感覚が毎日の楽しみでした。
ただし、現実としては、どれも中途半端になって、何も身に付くことはありませんでしたが。。。
そんな感じで英語の勉強は全体のまなびの2割くらいしかしていませんでしたが、私も一年間の交換留学の選抜試験を受けてみることにしました。
周囲がそれに向けてすごく勉強しているのを知っていたので、何も準備していない私が通るとは思っていませんでしたが、英語力や学校成績による一次選考は通過。
二次選考は様々な形での英語の能力を見るテストがありました。
やはり、そちらの方はハードルが高く、予想通りに落選。
しかし、テストの成績の通知を見ると、リスニングに関すること以外は合格者平均を超える成績であったのを見て、何も準備をせずに試験に臨んだことに少しの後悔を覚えました。
元々留学には興味は無かったのですが、結果を見るとやはり欲が出るものです。
勉強以外の生活では、さらに新しく友人の紹介により家庭教師を増やし、週末以外は毎日家庭教師や塾で教えるようなりました。
このころは別に教える仕事に興味があったわけではありません。
学校の先生なんかは大嫌いで絶対になりたくない仕事でしたから。
しかし、毎日生徒にどのように伝えれば理解してもらえるだろうかといることを考えるのが当たり前の日々でした。
また、この年は、アルバイトも増え、経済的に余裕が出てきたことと、私費でアメリカに留学している友人の誘いもあり、夏期休暇中にアメリカに遊びに行きました。
42日間、友人のアパートに居候をして、特に観光をするわけでもなく、シアトルの街と郊外にあるワシントン州立大学のキャンパスを毎日ぶらぶらして古本屋巡りをしていました。
友人は平日の日中は大学に行っていましたので、一人で行動をするため、多少は英語を話す機会があったのですが、外国人恐怖症の私はかなりおどおどして、マクドナルドでミルクの発音が通じずに元々ない自信をさらになくすことになりました。
この事が私の英会話アレルギーの原因かもしれません。
それでも、なんとか一人でバスやタクシーに乗って行きたいところに行って、アメリカの町の空気を感じ、町並みを楽しみました。
私はシアトルしか知りませんが、日本とはまったく違う町並みを思い出すと、また行ってみたい気持ちがわいてきます。
アメリカから帰ってくると、居候していた友人の親御さんから連絡があり、ホームステイしている留学生の話し相手になって欲しいという話がありました。
彼は両親が日本人で、日本語もだいたい理解できたのでコミュニケーションはたまに英語で話す感じで、ほとんど日本語でした。
それでも彼からは生のアメリカを少なからず教えてもらえたように思います。
彼とは日本の紹介のために週末にちょくちょく京都や神戸に出かけたりもしました。
彼は、日系人としての自分のあり方に悩み、孤独を感じていたのでしょう。
帰国後にお礼の手紙が来て、彼のお母さんからもお礼の電話をいただきました。
毎日、やることがあって充実した大学3年生でしたが、交際していた彼女とは、彼女が就職活動をしていて、少し疎遠な感じになって、心が揺らぐことも少なくありませんでした。
そして、思うように上達しない翻訳に焦りを感じ、大学祭後の一年をどのように過ごすべきかも迷い始めていました。
大学4年
大学も最終学年になりますと、卒業後のこともいろいろと気になり始めます。
私は翻訳家になりたい希望を捨てておらず、この一年でどうにかその足がかりになるくらいの英語力を身につけようと思いながら春休みを過ごしていました。
しかし、3年間他の言語にうつつを抜かし、英語の学習を十分にしてこなかった私の気持ちはかなり揺らいでいました。
やはり就職した方が良いのかな・・・
そう思いながら、毎日大学の図書館に通っていたところ、図書館員の人にアルバイトをしてみないかと声をかけられました。
条件は週に28時間以上勤務すること。
その合間に授業を受けに抜けるのは可。
そうすると、授業は10コマも取れない。。。
どうしよう。。。
でも、図書館で働くような経験はそうできるものでもない。
私は図書館でのアルバイトの申し出を受け、4月から一週間毎日大学の図書館を中心に過ごすことになりました。
当然ですが、これだけの時間を図書館で働くと、英語の勉強の時間も十分には取れません。
そのために、気持ちはどんどん変わって行き、翻訳家になる前にとりあえず就職をして見ようと思うようになりました。
本当にやりたい夢なら、働きながらでも少しずつ積み重ねていくこともできるだろう。
そう思って、就職活動も周囲の人たちよりも一ヶ月遅れで始めました。
就職活動を始めて一ヶ月もすると、内定をいただける会社が二つほど出てきました。
そして、その頃に大学より話があり、図書館司書として正職員として働かないかと声をかけられたのです。
ただし、条件がありました。
それは、内定は図書館司書の資格を取得すること。
卒業までに取れなければ、話はなかったことになる。
結構な博打でした。
当時関西外国語大学には図書館司書課程はなく、図書館司書資格を取るには、桃山学院大学の短期養成コースを受講するか、近畿大学の通信コースをとる必要があったのです。
こういうのは正直言って、通学で授業を受ける方が楽です。
しかし、桃山学院大学の短期養成コースはすでに受付を終わっており、いつからでも始められる近畿大学の通信コースしか選択肢はありませんでした。
科目数としては15科目ほどだったと思います。
合計30単位くらいだったでしょうか。
そのうち3つか4つはスクーリングで、残りは自学自習でレポートを提出して、合格をもらうと試験会場で単位認定試験を受けるというものでした。
きちんとレポートを書くには、大学で授業を受けるのとは違いごまかしはききません。
生活は図書館でアルバイトして、家に帰れば家庭教師の時間以外は図書館支所の勉強をする生活に一変しました。
ある意味、大学4年間で一番時間に追われて必死に学んだ時期ではないかと思います。
年に何回かある会場でのテストに合わせて、レポートを提出して合格をもらい、受験資格を得ていくためには、かなり厳密にスケジュールを立ててそれを遂行する必要がありました。
しかし、この年に友人が結婚をし、私はその結婚パーティーの司会進行役を仰せつかり、その準備にも時間をとられて精神的にかなり余裕を無くしていきます。
その結果、11月頃に私は鬱の状態に陥り、感情のコントロールも難しい状態になっていました。
図書資格を取らないと、その先がないと言うプレッシャーにつぶれかけていたのです。
その合間にも彼女と過ごす時間をやりくりはしていましたが、かなり追い込まれていきました。
そして、就職一年目の彼女は仕事の楽しさに目覚めて、すれ違いになることも少なくありませんでした。
図書館資格を得て、就職をしなければすべてを失うんじゃないかという強迫観念に追われて、そこから逃れたくて、岸念慮を抱くこともしばしばでした。
ある意味真っ黒な一年でした。
普通なら、授業もほとんど無く、就職が決まれば、後は楽しく遊んで時間を過ごすだけの4年生ですが、私にはそんな余裕などありません。
図書館司書資格の認定を受けたのは卒業後の3月下旬でした。
ぎりぎりのタイミングで私は関西外大の就職内定をもらうことができました。
大学の4年生の思いでのほとんどはこの苦しい図書館司書のための勉強です。
他に何をしていたのだろう、、、
たぶん時々は地元の友人とも遊んでいたのだと思いますが、記憶がありません。
ただ、この頃父との関係が少し悪くなったこともあり、卒業の2ヶ月ほど前に、この一年で貯めたお金を元手に一人暮らしのための部屋を契約しました。
そこで、それまでとは違う新しい生活を始めようと思っていました。
大学卒業直前に一人暮らしを始め、自分のペースで目標を追いかけテイク準備を整えて就職をしたのですが、私は自分で思っていたよりも意志の弱い人間でした。
そして、あちこちに興味の関心が移る軽薄な人間でした。
就職して仕事に慣れる前に、夕方の習い事を始めました。
西野式呼吸法という気の流れを強めて、潜在能力を活性化するというものですが、そう言う不思議系の事柄が昔から大好きな私は、働き出して自由になるお金が増えたので、安くはない月謝を払って週一度レッスンに通い始めました。
それまで交際していた彼女とは就職して2ヶ月で別れることになりました。
お互い社会人になり、それぞれの生活のペースがあり向かっていく方向が違うために、ともに歩んでいくイメージができなくなっていました。
その後、新しい彼女ができて一緒に生活をするようになりました。
新しい彼女は英語堪能で北欧言語を専門として、将来に大学で北欧言語を教えることを目標にしていました。
言語に関することをしている点で共通点があり、話がいつも盛り上がっていました。
その頃には西野式呼吸法は半年も経たずに止めていました。
元々の目標であった翻訳家になることについては、毎日の新しいことに紛れ込んで、後回しになっていました。
図書館司書の仕事は、ADHDの私には単調な毎日で、半年もするとうんざりとするようになりました。
その結果、ミスも増えて年末には上司に今後のことを考えてみるように言われもしました。
夢に対いても中途半端、仕事も中途半端で自分が無能であることにうちひしがれるようになっていました。
そんな時に、求人誌で塾の求人を見つけました。
それが塾業界に足を踏み入れる最初でした。
求人内容は幼児教育、つまり、幼稚園児の小学校受験の指導でした。
当時、何となく生き辛さを感じ始めていた私は、社会との摩擦にその生き辛さの元はあると思っていて、社会を変えるには教育が必要だと思ったのです。
そして、その教育でも幼児の時にどのようなことをインプットされるのかが大切だと思い、幼児教育に参入しようと思ったのです。
しかも、その仕事は週4日勤務だったので、自分の時間も取れました。
1992年3月3日に大学を退職して、その月の3月18日に第一ゼミナールの幼児教育部門に入社しました。
一週間ほどの研修を受けて、現場に配属されますと、いきなり授業を持つことになりました。
しかし、研修では指導に関することは一切していません。
幼児教育については全くの素人が授業前に10分ほどの説明を受けていきなり授業を持たせるこの会社は大丈夫なのか?と思いましたが、塾業界は今も昔も人手不足でそれほど変わらないのかもしれません。
結局は自分で幼児教育についても小学校受験についても勉強するしかなく、見よう見まねでスキルを身につけていきました。
当然ですが、翻訳の勉強などする時間などありません。
そんな人間が子どもの知能検査をして、その結果と助言を分かったような顔をして保護者の方にします。
授業の後にも教材説明というのが15分あり、その時も自分なりの教材の解釈を説明して、家庭でどのように子どもを育てていけば良いのかをアドバイスするのです。
毎日が冷や汗ものでした。
しかし、その経験は後に自分の子どもを育てるときに大いに役に立ちました。
あのときの経験が無ければ、長男を家庭での自立学習だけで偏差値70弱を取らせて、のちに京都大学に入学させることはできなかったでしょう。
新しい仕事に慣れてくると、時間も取れるようになり、仏教大学の通信課程に入学しました。
関西外国語大学では学問らしい学問をしていた感じがなかったので、まじめに勉強してみたいと思ったのです。
そして、夏には毎週末をスクーリングで仏教大学に通ったりもしました。
そして、夏が過ぎる頃にまだ本格的な普及前のパソコンに興味がわき、日本橋に足繁く通うようにもなりました。
すると、大学の勉強も翻訳もそっちのけになり、パソコンのことばかり考えるようになります。
一応頭の中では、大学の勉強の補助として、翻訳の勉強の補助として、パソコンを使えるじゃないかと言う思いはあるのですが、実際にはパソコンそのものへの関心が強くて、勉強のことはそっちのけになってしまいました。
そこからは、3年間幼児教育の仕事を辞めるまで、時間があればパソコンのことばかりしていたように思います。
途中からは、パソコンのゲームにも手を出すようになり、ゲームをするのに最適なパソコンの環境を作ることに一生懸命でした。
私はゲーム自体はそれほどのめり込むことはなかったのですが、いろいろなゲームを購入しては、そのゲームにあった設定を作るということを楽しんでいたのです。
ですので、当時の私はショップの店員と同じくらいのパソコンの知識を持っていました。
ただし、それはウィンドウズが出てくる前のことです。
パソコンのことばかりとは言いましたが、その間にも興味がわいてくるものはあり、児童文学にも関心が出てきました。
これは翻訳をするに当たって、何を翻訳するかを考えたときに児童文学が良いのではないかと思うようになったからです。
これはおそらく幼児教育をしていた影響かもしれません。
そして、先ず始めたのは児童文学のサークルに参加することでした。
ただ、ここはレベルが高く、参加する人たちがすごく深く作品を読み込んできてディスカッションをするのです。
そのレベルの高さについて行けず、半年持たずにドロップアウト。
そして、その後にはプロの作家が主催する童話創作のサークルに参加しました。
ここは課題が毎週あり、課題に沿った短編の作品を毎回提出するのです。
最初は楽しかったのですが、途中からは時間に追われるようになり、だんだんと足が遠のいてしまいました。
そうしている内に、3年が経ち、幼児教育、小学校受験のことがだいたい分かってくると、仕事へのモチベーションがなくなってきました。
そこに週5日勤務の話が出てきたときに、その時のモチベーションでは無理だと思い、退職することになりました。
私は根っからの怠け者だったので、少しでも働く時間は短い方が嬉しかったのです…
第一ゼミナールを辞めて二ヶ月半、私は仕事もせずただ遊びほうけていました。
完全に目的もなく、翻訳家になる夢もあきらめていました。
毎日だらだらと行きつけの喫茶店で漫画を読み、常連のお客さんや店員さんとどうでもいい話をする毎日でした。
一ヶ月もすると、それほど貯金もなかった私の貯金残高は10万円ほどになり、そろそろ仕事を探そうかと言うことになりました。
でも、特にやりたいこともなく、何となく先物取引の会社を数社受けてみたりしました。
単に給料が良かったからです。
でも、仕事内容はあまり楽しそうでもなく、仕事に携わる時間が長いこともあり、気乗りはしませんでした。
採用通知ももらいましたが辞退をして、次はビジネスホテルに応募をしてみました。
これも2社受けて、外国語大学卒業であることから、それぞれ採用をいただきましたが、仕事で使えるほど英語が話せるわけでもなく、期待に沿える自信が無かったので、辞退をしました。
そんな時に失業手当の手続きでハローワークに行ったときに見た求人誌で明光義塾でのフランチャイズスーパーバイザーの募集を見つけました。
第一ゼミナールを辞めて、もう塾業界では働きたくないなと思っていたのですが、その広告を見たときに、これは自分でして見たいことかもと感じたのです。
それは、フランチャイズの教室の運営指導でした。
つまり、自分が教室をオーナーと協力して作っていく仕事でした。
自分が思うような教育の場を作れるかもしれない、と感じた私は学習塾での仕事にまた、希望を感じたのでした。
明光義塾は、第一ゼミナールでの経験、それは当時4社しかなかった株式公開している学習塾で働いていた経験なのですが、それを飼われての採用でした。
つまり、当時の塾としては最大手の洗練された会社のもつ企業風土やシステムを当時まだまだ出だしの明光義塾に取り入れていきたいという思惑にマッチしたようです。
後から聞いたところによると、採用倍率は50倍を超えていたそうです。
独立後の生活は私の人生の半分を占めています。
いろいろなことがありましたが、こちらの記事はまだ書けていません。
すみません。
すみません、こちらはまだ書けていません。
私の夢や目標はその時々でころころ変わってきたように思います。
でも、いつもこうありたいというのは変わっていないかも知れません。
夢や目標は、どれだけ変わっても良いんだよと、子どもたちには伝えたいのです。
夢や目標は、自分が自分らしく生きるための道しるべです。
ですから、自分が納得いく人生のためになら、臨機応変に変えていきましょう。